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ノーコンタクトの世界で私が触れたもの。(あくまでも仮題)

(雑誌PERFECT DAY 2018年2月号に寄稿させていただいたエッセイのボツ原稿バージョンを以下に掲載します)

     

 もう何年も前から、ずっと瞑想に興味があった。世界を旅して出会う魅力的なボディワーカーたちは、皆、瞑想をデイリーに取り入れていて「あれ?…..あやはまだ、そこに行けてないの?」的なオーラを発する。正直言って悔しかった。自分の未知なるフィジカルな世界がまだまだ続いていることが。

 何度もそれ触れるチャンスはあった。チェンマイに年に3度も行っている時期があった。チェンマイはタイの京都とも言われる古都で、お寺がゴロゴロある。そこでは私の参加したい10日間以上の瞑想合宿がオープンに行われていて、いつでもwelcome!  唯一のやっておかなくてはならいことは、白い服を揃えること。ナイトマーケットで探し回って備えた(真っ白いわゆる純白ってなかなかない!)にも関わらず、「貴重な休みを10日間も捧げちゃうの?」「気温が40度越してる、暑いよ。」などど、いつも止まない頭の中のおしゃべりが、私の行動を止まらせた。無理もない。他にもやりたいことは、常にたくさんあるのだ

 そんな、オレオレ詐欺ならぬ、瞑想やるやる詐欺状態が数年続いていた。ある日、いつものようにそんな話をしていたら、友人のフォトグラファー石塚元太良くんに痛いところをチクリ突かれた。「なにそれ、今すぐできるよ瞑想なんて。」と。私はドキッとした。彼は、たった一人でカヤックで移動したりしながら広大なアラスカの写真を撮ってしまう冒険写真家だ。彼の切り取る自然の荘厳な1シーンはスーパーmeditativeな一瞬だ。素直に従おうという気持ちになった。どうやら、お線香の1本分はだいたい20分かそこらなので、これを目安に瞑想をすれば、目に見えて達成感も得られるし、モチベーションも上がるらしい。そして、目の前にそれを立て、火を灯し、目を閉じればいい。ただそれだけ。それから私の瞑想への旅が始まる。あれから4年くらい経ったのだろうか?おかげさまで、その日からうちではお線香を絶やすことがなくなった。

 

 長らく迷走しつつ、この秋やっと念願の!10日間の無言の修行(vipassana瞑想)にたどり着くことができた。その生活たるや聞くだけで震える。修行センターのドミトリでーの共同生活、会話もアイコンタクトさえも禁止、テレビや携帯ビールも禁止、完全菜食の食事で、ノートも鉛筆も預ける。やることといえばもちろん瞑想で1日約11時間。起床は朝の4時の厳格な規律に沿った生活だ。完全に外部からの接触が断たれたこの状況。ひどく苦しい修行生活!と行く前は完全に尻込みしていたが、今振り返ってみると、なるほどと思える。私が体験したのは、全ての感覚をオフラインにした外部とノーコンタクトな世界。いわゆる、触れない、触れられない世界。

 少し話は変わるがマルチタスクの弊害が叫ばれてからだいぶ時が経ち、さらにそれは進化して、Continuous Partial Attention(連続的注意断片化)になったという。アップルとマイクロソフトの元役員のリンダ・ストーンによって提唱された言葉だが、この誕生が1988年らしいから、もう、時代はCPAどころか、CPPA,CPPPAに進んでしまっているかもしれない。簡単にいうと注意が拡散して疲弊する状態だが、マルチタスクとは大きく違う。まずはその動機。マルチタスクは「より生産的により効果的に」というもので、何かを同時に行うにしてもルーティンでできることや、やもしくは認知の少ない簡単な作業の組み合わせであった。食事しながら書類を整理したり、コーヒーを飲みながら電話をしたり。しかしCPAは「何一つ見逃したくない!」のが動機。さらに2つ以上の認識の必要な作業をする。運転しながら電話で話したり、家族と夕食をしながらテーブルの下でテキストを打ったり。CPAはその時、一番重要と思われるタスクをする一方で、同時に他者を、行動を、好機をスキャニングして、そしてまた一番になるものをさっと瞬時に入れ替える。こんなことをずっとしていたら、脳の回転数はどんどん上がり、その影響が体にストレス下のFight or Flight 反応を与えるのは言うまでもないだろう。何一つ見逃さないようにと意識のアンテナを張り巡らすことは、無意識にできたマルチタスキングと違い、大きな精神的にかつ身体的なストレスにつながる。 誰からのメッセージ? あの子の着ている服は何? あの人がいいね!してくれた。マヨルカ島はいま何時?

  何も見逃したくない!という24/7の外へのスキャニングを休ませる方法はただ一つ。そことの接触を立てばいい。生きている実感をそこに求めず、自分の中に求めてスキャニングすればいい。そもそも、感覚というものはすべて触れることから始まる。視覚は光と網膜、聴覚は鼓膜と空気、嗅覚は鼻粘膜と臭い物質、味覚は食べ物と味蕾、いうまでもなく触覚は皮膚と何かの接触だ。

 10日間の無言の修行の極限までそれを控えた生活で、まず五感が休まった。そして、今までは外野の音がうるさくて聞こえてこなかった、私の頭の中のおしゃべり….くまなく一日中しゃべり続けるこのおしゃべりの存在に驚かされた。意外にも賑やかなのだ。瞑想って「無」になることなんじゃないの? 多くの人がそう思っていると思う。わたしの場合はそうではなかった。ただ、それらのおしゃべりは通り過ぎていくということを知った。まるで空を過ぎる雲とか、お天気のように。そしてそれに対して、いいね!も悪いね!も押さずに、それがただ通り過ぎていくことを見守っていられるようになった。それを繰り返していくと、頭の回転がどんどん減ってきて、過ぎゆく雲のスピードも減ってきて。手の指先が温かい。なにこれ、カラダの良さそうだ…..瞑想初心者が辿り着いた個人的な小さな経験。でも、私にとっては宇宙規模に嬉しいこと。

 しかし、瞑想修行なんてとんでもない!そんな時間がないという方に朗報だ。瞑想しなくても自分の内側をスキャニングするオススメの方法がある。それはボディスキャンだ。そう、ボディスキャンは瞑想の入り口だ。まず楽な姿勢や横になる。リラックスした呼吸からはじめ、頭の先から爪先まで、ゆっくりと順を追って自分の体を感覚でスキャニングしていく、ただそれだけ。横になった瞬間に眠くなる。そんなときこそ自分に言い聞かせてほしい。自動操縦モードに任せ、惰性で行動していないか? 自分が今何をしているか、目の前のことにしっかりと辛抱強く関わっていられるか?

 

 結局、人が本当に生きられるのは「今」という時間しかない。恐ろしく便利になった現代はいつでもどこでもつながることが可能なようでいて、実は何にもつながれないようになってしまったのかもしれない。深く、しっかりとつながるという意味で。 その瞬間が 時間にしてたった1秒であったとしても、しっかりと目の前のことを「これだ!」と、つかみ取ることができたら、その日は私のパーフェクトデイだなと思う。元太良くんのあの一言を掴み取った、あの瞬間のように。